地域の話題

宮崎産業開発青年隊による切原川通常砂防直営工事の施工時代の思い出

【月間メディア砂防(モノクロームの時代 第41回)】平成14年8月号掲載の改訂版
株式会社 共同技術コンサルタント
 会長 松浦 義貴
(大正12年3月31日生)

1

宮崎県産業開発青年隊は本県が全国に誇り得る建設技術者の養成機関である。
青年隊は歴史が古く、来年の平成23年5月で創立60周年を迎える事になる。
この青年隊は当初、終戦後の混乱期における農村の二・三男対策として発足したもので、「働きながら学ぶ」ことを基本として、自活しながら建設技術を体得し、技術者としての可能性に挑戦することを目的としている。

そこで青年隊は働くための工事現場近くに飯場形式の宿舎を建て、それに食堂兼学習小屋を付設し、昼は現場で土木作業に従事し、夜は学習小屋で測量・土木施工法・コンクリート工学等の講義を受ける。さらに雨天・休日等も測量器械の取り扱いや調整法の実習をする等寸暇を惜しんで一年を過ごすこととなる。
切原川通常砂防直営工事(流路工)は昭和33年度から昭和39年度までの7年間、この青年隊の修練の場となって施工されたのである。
宮崎県の砂防事業については、本県の初代砂防課長であり最後は建設省初代砂防部長となられた故矢野義男先生の追悼著作選「砂防のこころ」に「宮崎県の砂防について」を書いておられるのでその一部分を引用すると、「毎年のように襲来する台風のため荒廃のまま広い河積を持つ原始河川の形態をとるものが多かった。人々はここに竹林を仕立てて洪水の時の河川から耕地へ土砂の流入するのをこの竹のフィルターで防いできた。河川敷に長く形成されたコサンチクの竹藪は、日向の河川の一つの特色ある景観であった。」と言っておられる。
切原川は県中央部を貫流する一級河川の小丸川の左支川で引用文の通りの竹藪や柳等の雑木の繁茂した荒廃した原始河川であった。
切原川の直営工事は高鍋土木事務所長のもとで現場担当の技師が工程を組み、直接工事に従事する熟練した世話役・土工・石工・機械工等を雇用し、現場施工態勢を整え、毎年約80名の青年隊員を受入れ出来るよう万全の態勢をとった。

2

この多数の隊員を効率よく働かせるためには、まさに人海戦術しかなかった。そこで現場内の比較的長い運搬にはレールを付設した人力で押すトロッコを使用した。小運搬には畚(もっこ)による人肩運搬をした。床堀等の掘削には鶴嘴・鋤簾(じょれん)・スコップ・金梃・ハンマー・ハンドブレーカー・チエンブロック等を現場の状況に応じ使用させた。また湧水のある床堀ではバーチカルポンプを、床止工等広範囲の床堀には動力使用の揚水ポンプを使用させた。そして、床堀が深い時には土砂を簡易ベルトコンベアで揚げさせた。また構造物の型枠組立方の要領を教え、コンクリート打設は大量の時には動力ミキサーを、少量の時にはハンドミキサーを、時には鉄鈑上で手練をさせた。これは世話役をはじめ雇用した熟練工達がまず手本を示し、隊員の指導をしながらだんだんと熟成度をあげさせた。
青年隊員約80名は数班に分かれているので、現場に応じて班毎に仕事を割り当てた。夜の講義が進む数ヶ月後には丁張掛けや高さチェック等の測量も実習を兼ねてやらせた。
青年隊の宿舎における教育訓練は県土木部管理課の青年教育のベテラン堀之内砂男氏が責任者となり、その下に同じ青年隊を以前に終了したものから選んで雇用した指導員及び同助手を配し、隊員と起居を共にさせながら訓練にあたらせた。 隊員は早朝5時半に起床し点呼を取り、準備体操をして掛声をかけながら遠距離集団駆け足訓練を行う。これによって隊員の精神面の訓練をし、合せて土木作業に耐えうる体力の養成をした。一日の現場作業が終わり帰隊し、入浴・夕食が終わると余り休む暇なく夜の専門教育が始まる。一日の労働の疲労で睡魔におそわれると自ら席を立って、そのままの姿勢で講義をきく。ともすると挫けそうになるが宿舎のいたるところに張ってある「ファイト無き者は去れ」の隊是が目に入り、涙しながらまた思い直して我慢しそれに耐えた。
青年隊員が一番困ったのは雨続きで工事現場で働けない日が続くことである。
隊員は自活のための食費が不足してくる。このような時、管轄する所長はその心配をしてやらなければならない。当時、高鍋地区の国道10号線は砂利道であったので、雨の日に隊員を使って補修をさせたり、道路敷の草刈りをさせたりして不足賃金を補うこととなった。
また、青年隊はこれから到来する機械化時代に即応するため、大型特殊免許を全員に取らせた。それは班毎に工事現場に行かず隊に居残り、モーターグレーダーの運転実習をして取得したものである。なお県市町村公務員試験にも毎年合格者がでたが、それは夜の講義が終了し点呼を受けた9時半過ぎから寝る時間を割愛して勉強した結果であり、その努力には感服させられた。同時にゆったりと勉学に励める時間のあった学校時代には合格できず、ぎりぎりの生活を強いられるなかで合格する、人間の不可思議さに深く感動を覚えたものだ。こうして一年経過した時の隊員はたくましく頼もしい青年となって修了していった。
切原川は7年間の直営工事で約1.3キロメートルの流路工とそれに付随した床止工・帯工を完成した。ここで教育訓練を受けた青年技術者は実に550名の多さである。しかも現在、年齢的には一番会社の中心となる年代で幹部公務員、建設会社の社長や幹部職員が多く輩出している。
【月間メディア砂防(モノクロームの時代 第41回)】平成14年8月号より

3

この投稿は、宮崎県砂防ボランティア協会に入会していたので、砂防課から依頼を受け書いたものである。編集後記で望外のお褒めを頂き感激している。
しかしこれは、モノクローム時代のことであり、それ以降、建設機械が急速に発展し、日本列島改造論に後押しされ、建設業の全盛期が到来したのである。でも終戦直後はこのような時代があったことを心に留めてもらいたい。
時代は変わり、公共事業批判が始まり、またインフラの劣悪化が著しい時代となり、アセットマネジメントの時代となった。宮崎県産業開発青年隊も今年は20名程度の募集となっており寂しい限りであるが、これまでにこの難行苦行に耐えて修了された青年は、実に4,580名とのことである。