地域の話題

NHK2008年大河ドラマ「 篤姫 ( あつひめ ) 」放映に向けて!

株式会社 久永コンサルタント
代表取締役社長  福留 三郎

桜島
和泉島津家屋敷
▲今和泉島津家屋敷跡

今和泉島津家屋敷跡 NHKの大河ドラマは、2006年の「功名が辻」、2007年の「風林火山」に続いて、2008年には「篤姫」の放映が決定した。この「 天璋院篤姫 ( てんしょういんあつひめ ) 」のゆかりの地、郷土鹿児島では、来年のドラマ放送予定の「篤姫効果」に観光浮揚の期待が一層高まってきている。
 13代将軍徳川家定(いえさだ)の御台所(みだいどころ)(夫人)天璋院篤姫は、天保6(1835)年12月に、鹿児島の今和泉家島津忠剛(ただたけ)の娘「於一(おかつ)」として鹿児島城下の、鹿児島(鶴丸)城の東北に位置する、大龍寺の西隣にある今和泉島津家屋敷で生まれる。現在、屋敷自体はないが当時を偲ばせる石垣が通りに面して残っている。

島津 島津
▲島津斉彬                 ▲家系図

 領地の今和泉郷は、現在の指宿市で、領地仮屋跡は現在今和泉小学校となっている。
 「篤姫」という名には、嘉永6(1853)年に薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)の養女となって改めたものらしい。さらに、安政3(1856)年に右大臣衛忠ひろ(このえただひろ)の養女となった時に敬子(すみこ)と改名し、同年近衛家の娘として徳川家定のもとへ嫁いだ。まさに薩摩から大奥への初めての輿入れであった。
病弱の夫、家定との夫婦としての交わりのない生活でも仲むつまじく夫をいたわりながら、家督相続の中で養父斉彬の推す一橋家の朝廷工作など行ったりしている。夫家定が死亡後は、24歳で未亡人となり仏門に入り「天璋院」と改め、生活習慣の違う14代将軍 家茂 ( いえもち ) の御台所となった 和宮 ( かずのみや ) との嫁姑との確執を越えた中で「公武合体」にお互い尽力する。

 将軍の跡継ぎをめぐる幕府内の混乱と反幕府運動の激化する中で、江戸城に迫り来る西郷隆盛ら薩摩藩を中心とした新政府軍に働きかけ、無血開城の実現にも大きな役割を果たしている。江戸明け渡しの後は、日本が混乱を極めていた時代に郷土薩摩に帰らず、徳川家の人間として最後まで「誇り」と「覚悟」を失わず、感受性豊かに生きた姿は宮尾登美子の歴史小説、「天璋院篤姫」の中で細やかに描かれている。

 徳川家と島津家は、関ヶ原の合戦や戊辰戦争で敵対していたため、江戸時代を通じて交流もないようなイメージである。しかし島津家は、御台所(夫人)は皇族または摂家の娘を迎えるという慣例を破り、将軍家に御台所を送り込んだ唯一の大名で、両家の結びつきは他の大名家と比較にならぬほど強固なものであった。

年表

 勝海舟の維新の頃の思い出記「海舟座談」では、天璋院篤姫のことにふれていて、天璋院が命をかけて徳川家存続に尽力したことや、後年には海舟の姉と言うことにして市内散策を楽しんだり、手作りの羽織などを篤姫よりもらったりしたような交流があったこと等を伝えている。

 こうして天璋院篤姫は、西郷隆盛や勝海舟、坂本龍馬、島津斉彬などと同じく、時代に翻弄されながらも、自らの運命を前向きに力強く生きた「薩摩おごじょ」としての一生を、薩摩に戻ることなく明治16年に、49年にわたる波乱と苦難に富んだ人生に終止符を打っている。

現在鹿児島では、温泉・焼酎・桜島や農水産物が全国的に有名であるが、今回「天璋院篤姫」がNHKの大河ドラマで放送されることで、県や市も合同して「篤姫」ゆかりの地を整備するとともに、甲突川河畔に「大型ドラマ館」の設置計画を具体化して、これを追い風とした観光浮揚を図る計画が進められている。

この「篤姫」の放映と九州新幹線の全線開業に向け、鹿児島県が持つ豊かな地域資源を活用するとともに、観光客のニーズを的確に捉えた事業を展開し、今まで以上の魅力ある観光かごしまの振興を図っているところである。


篤姫
▲天璋院(篤姫)
尚古集成館所蔵
篤姫
▲領地今和泉島津家屋敷跡
(現指宿市)
篤姫
▲篤姫が2ヶ月余り過ごした
鹿児島(鶴丸)城
篤姫
▲西郷隆盛銅像